京都の奥座敷「宇治田原」日本緑茶発祥の地
京都の郊外にある「宇治田原町湯屋谷」は、京都の郊外にある小さな村ですが、世界のディープなお茶好きには有名な、日本の緑茶発祥の地でもあります。
1738年にこの村の茶農家であった永谷宗円が現在の日本の緑茶の原型となる、青製煎茶の製法を考案したとされています。
当時の社会は自由経済ではなかったので、当時は隣の宇治村や大鳳寺村の御茶師と呼ばれる人々に特権的に抹茶を売ることが許されていました。
こうした当時の商習慣から疎外されていた湯屋谷(当時は湯谷村)の茶農家であった永谷宗円とその子孫は、発想を転換し、200年前に宇治茶の世界で破壊的イノベーションを起こすことになります。
つまり、御茶師が強い権限を持っていた抹茶ではなく、当時普及し始めた煎茶に着目し、江戸(現在の東京)の茶商、山本山の庇護のもと江戸まで販売するルートを開拓したのです。
伝承にあるように製法が本当に宗円やその子孫によって創始されたのかについては、一次資料から辿ることはできませんが、永谷三家に伝わる文書には1800年代には上方(京都、大阪)から江戸に運ばれる茶荷物のうち半分以上がこの小さな村を通じて出荷されていたこと、湯屋谷だけでも1万貫(37.5トン)が生産されていたことは記録から伺えることから、青製煎茶が充分に排他性のある品質を有していなければ先行する製品を淘汰しつつこのような評価を得ることは非常に困難であったことは確かでしょう。
しかしながら、湯屋谷の煎茶は約100年ほどで支配的地位を失うことになりました。
開国後、旧支配階級の没落とともに流通構造が変化したこと、海難事故を嫌った山本山の仕入れ先が狭山に移って行ったこと等が主な原因ですが、その後、後進の農業国として世界に歩みだした日本にとって茶は数少ない重要な輸出産品となり、その主産は静岡県となっていきます。
そして時代は下って、現在、この小さな村湯屋谷に茶農家は私を含め10軒ほどしかありません。
前茶は日本が近代化する以前に生まれましたが、機械化された現在も永谷宗円の時代と大きくは変わらない製法で煎茶は作られています。
私たちの先祖は永谷一族から受け継いだ茶畑で、数百年以上にわたってお茶を作ってきました。
私たちの使命は200年前に作られた伝統的な茶畑を守り、当時と同じ無農薬で茶の木を育て、宇治茶本来の姿である香り高い煎茶を受け継ぐことです。